煎餅の記録

Hey!Say!JUMP多め

殺風景5/13

観に行きました。
ネタバレもしますが、とにかくぱっと思ったことを書いてから寝ようと思います(公開するのは14日にするけど)。

かなり面倒くさい文章になります。なのでこう…読んでイヤな気持ちになったりされる方がいたらごめんなさい…ということで…笑。
新鮮なうちに書いておきたくて…!どっちかといえば観劇された方が読まれた方がいいかなぁ。何度も書き直すかもしれません。そしてこれから追記もするかも。思いついたままにまとまりも前後感もありませんが書きなぐります。

簡単に気持ちを纏めてみると。人間ってこういうものだよだったな…とイヤというほど突き付けてくる舞台でした。人間の負の本質、というものを。しかしこれが重苦しくなく笑いももって観られることの「作品としての完成度」がとにかく高くて。作った方のバランス感覚を感じる。
寧ろ、人間の核にある混沌としたものを精度高く表出させることにより、それを見ている側が逆に笑えてくるような現象、と言いますか。


まず、心に残った台詞たちの羅列。
「缶蹴りの鬼にならないためにはただずっと隠れていればいい」
「美化してもいい殺人なんて1つもない」
「真相はどこにもない。あんたにとってはどれもこれもつまらん真相」
これらのセリフは「人間とはどういうものか?」という問いかけの答えに手を伸ばして真実に肉迫するセリフだな、と。

稔のカナブンエピソード。殺人を犯した稔が「人間」であることの表現。

刑事さんの言葉
「だだっぴろくてちゃんと整備されてるけど 空気が止まっている」
「どこかで見た風景」
「町全体が白い」
「何か嘘をついているかんじ」
「止まっているように見えて、地面の中で蠢いている。街全体が白いのに(奥底では)黒いものが蠢いている」

第三者的に描かれている東京から来た刑事さんのクライマックスの台詞なのですが、ここで起こるカタルシスが激流でした。人の流動が激しく、常に再構築を求められる「都会」ではなく、流れが淀み思考停止に陥っている「田舎」の描写。(地方がみんなそうだという意味ではなく、こういう部分があるよね?という描写です)

激流といえば。
殺す側と殺される側のマリ、節子、そしてクニオがこの順番で次々と共に黒の舟歌を歌うシーンは壮絶でした。
ここでは観客から笑いも起こるのですが、殺される側も殺す側も、そしてその空気の中に包まれる観客も、人間はみんな「同じ穴の貉」感を感じる演出が凄まじくて鳥肌が立ちました。
そこにいるのは殺人鬼ではなく「人間」なのだということを強く実感。

その中での、マリの「ウチはアンタとは違うとよ!幸せになるとよ!幸せになるけんね!」といって刃物で節子を八つ裂きにするシーンの、言葉にし難い人間の生々しさの表現。同じ籠の中に入れられた同じ穴の貉の、逃げられない場所から逃げようとする感じというのかな…。

罪の源流

荻野目さんのインタビューにあった言葉です。
ぞっとするポイントはまずそこでした。時代、土地、血の呪縛ともパンフには書いてあるんですが。
劇中ではそれを想起させる表現があれこれ出てきます。
現代でクニオが息子たちを新聞で殴るシーンと過去でヤクザが安西を花束で殴るシーンのばしぃばしぃという殴り方、「アンタみたいな人間本当に嫌いです」という台詞、クニオの母とクニオと稔の自殺(しかしクニオと稔の自殺は結局死ねてはいないんだけどそこにもまた不気味さが感じられます)、女の業を受け継いで生まれ、自身もそのように生きそしてそれを息子に背負わせてしまうマリ。


田舎町の閉塞感が血の呪縛をどろりと濃くしていくようなイメージも与えてくるところも強くて。
同じような言葉を使う同じような住人たち。そもそも方言はそれ自体に鎖国的なイメージもあるけど、如何に人間が言語で世界を識別するのかということを考えると、同じ言葉を使うことによる閉塞感、それがつまり突き進むと呪いに繋がっていくのかと思わせる感じ。
そして同じありきたりの言葉を使うことにより思考が停止していく。「何故これはこうなの?」「これはもっとよくすることはできないの?」というWhyを手放すことはそのまま思考停止につながるのですがそこをギリギリまで追求することによりそれが匂い立つほど表現されていて。

閉塞感って何も田舎だけの話ではなくて、例えばおたくという閉塞、だのそこら中にあるもので本来人間は同じ場所にとどまっていると、立ち止まっているとどんどん閉塞していくという現実(それが前か悪かという問題ではなく)も表現されているのかな。

クニオ(父)が印象的だったのは、とても「昭和」的であったということ。そのまま思考停止した人間として描かれていた気がします。
クニオは人を何人も殺めた稔に「お前は俺だ、俺はお前だ」と言い聞かせる。呪いのように。血とは、むしろ人が人にかける呪いなのではないかとすら感じさせる。お前はこういう人間から、こういう場所で生まれた人間だ、と。

お前は俺だ、と言い聞かせているクニオ自身は、実際はその場で人を殺していません。全て息子にやらせているんです。クニオが人を殺したことがあるかないかは別として、事実息子に全てやらせるんです。
その上で「俺はお前だ、お前は俺だ」。これは、それまでもこの言葉によってクニオは稔に呪いをかけ続けてきたんじゃないかって思わせます。
そしてクニオ自身も母から呪いをかけられている。そもそもクニオの家族への渇望は母の影響なのだろうし、やがては稔にも受け継がれてしまう。
劇中ではその血の呪いを完全に肯定しているわけではなく、ただ表現されているだけであって解が一筋縄ではいかないところがまた深い。

稔という存在が、人間が本来向き合うべき「孤独」の表現にも見えました。行き交う人々の中、もがき苦しむ稔(それともクニオ?)の姿が冒頭とラストに挟み込まれるのですが、次々と人を殺していく姿…しかし迷いなく殺すのではなく、銃を外す仕草に迷いも表現されている。ここら辺りはとても映像的に感覚的にとらえました。家族という幻想、そしてそれを渇望する姿がクニオと稔に表れてるのかな。

稔のカナブンエピソードはこの物語の救いであり、ここでかなりのカタルシス。そこまで地層のように積み重ねられてきたものがこみ上げてきます。

幼少期、エスカレーターで前に乗っている人のワンピースの背中にカナブンがポツーンとまっていて、それが金色のボタンだと思っていたら、ちょっとずつ襟首に向かって動いていく。
そしてそのカナブンが飛んだ、という話を殺人をする直前に5年ぶりに姉(家を出た人間)に笑いながら話す稔。

「何やったと思う?」って面白げに訊ねる稔に、そんなのカナブンだろ…と思いつつも笑って「何?」と訊き返す姉は、血の呪い、閉塞感から飛び出した人間と気づかずにじりじりと蝕まれていった人間のメタファにも思えたし、そしてじりじり動いていたカナブンが飛んでいくという表現が、常に表面張力で内に存在する人間の狂気や殺意の一歩向こうにいってしまうことのメタファでもあるような気がして。深読みし過ぎてるかな。

殺意というのは日常に潜む、誰しもが少なからず抱く感情だけど、そこを飛び越えてしまう非日常への引き金を緩くしたのがこの場合は血の呪いであったのでしょうか。呪いによってラインを踏み越えてしまう息子。
些細なことで人はあっち側にいってしまうのだとちオセロゲームのような真実を見ている感じが恐ろしい。

観ているこちら側に、「これが正義だよ、これが悪だよ、この人はこういう人間なんですよ、こういう解釈をしてくださいね正解はここですよ」と提示をしてこない舞台です。というのも、誰の心理描写もしておらず事実がそこにあるだけの。

赤堀さんがブログで、役者さんに「ここはどう思ってるのか」と訊かれても「分からない」と答えてしまう…というようなことを書いておられたのですが、本来人間というのはそういうものなのかも知れません。
自分と違う個体の気持ちなど分かるわけない。分かったような気がしている、分かったことにしている、だけなのだという事実を突き付けられる感じ。

ツイッターにも書きましたが、難解というわけではありませんでした。方言が理解できたからかも知れませんが。

実は、ちらりと見た感想に「難解だった」というものが多かったので、逆に全てのメタファーを明確にしてやる!じゃないと食われる!!くらい意気込んで観劇したんですね 笑。

難解と言うと少し違う気がする。
しかし、一言で感想が言い表せない。書いても書いても考えても考えても足りないし、全然遠いような気がしてしまう。そしてまたあれこれ考えてしまう。「分からない」と思考停止させてもらえない。そういう意味では難解でした。問題作です。最高だった。

「この舞台はこういうことが言いたいのだなぁ」と決めつけてることができなくて。答えの出ない、人間の背負っている業のような根源的な何かと向き合わされる感じ。そもそも、何にでも解を求めようとするのはとても傲慢なことなのかも知れない。

何で稔はあんなことをしてしまったのか?そんなこと、誰にもわからない。本人にさえ分からないのかも知れない。衝動的な行動だったのかも知れないけど、そこへの針穴を空けたのが脈々と受け継がれ、クニオが稔にかけてしまっていた呪いのようなものなのか。

世界には正しいことと間違っていることが存在しているのではなく、人間が「これは正しい」「これは間違っている」と決めているだけのこと。人間の感性は千差万別で100%共感し得ることなどない(それを孤独と呼ぶのかも知れない)ということ。それは家族であっても本来は変わらないものだということ。しかしその幻想を渇望する矛盾を人は抱えていること。そもそも人間というのは矛盾を抱えて生きているとても滑稽で愛すべき存在なのだと、当たり前であるはずのことをはっと思い出しました。そしてそれをボッコボコに浮き彫りにすることによって、事件を通して「人間」がありありと描かれている生々しさに息を飲みました。


どんなことでも「明確化」「システム化」することにより、ある事象を平たく分かりやすい共通認識とすること、他人と共感し合うこと、不透明なものを限りなく透明化していく世の中…「除菌する世界」の気持ち悪さ。ふわっとした曖昧なものをどんどん排除していく風潮=もうすぐ新幹線の通る大牟田の街なのでしょうか。

劇中の「何か嘘をついている感じ」は引っかかりました。人間が狂気にヴェールをかけて何事もないように、自身の中のどす黒いものに向き合うことなく思考停止して生きていることのメタファなのか、それとも除菌されていく世界の中に必ずある「血の呪縛」の存在のメタファなのか、それともその両方でもあるのか。

強いもの、頭の良いものが生き残るのではない。変化するものが生き残るのだ、というダーウィンの進化論って人間の知性にも当てはまるものなのかもとふと考えました。クニオの母の自殺、クニオの自殺は時代に取り残されたものの末路に思えてくるからです。

家族についてもあれこれ思ったのですが、、もう朝です笑

このような人間の根源的などす黒い塊を全ての役者さんとここまで表現できる光くんはどれほどまでに自己内省したんだろう、、これは消耗するだろうな、、しかもこれを人に伝えられるほどに消化して表現までするんだから。

言葉で何とか書き留めようとしても描き切れない底なし沼の人間の生々しさ。小説やドラマではこれは味わえない、舞台だから味わえるんだ!!と目が醒める思いでした。すごく重いテーマだけど、意味がわからなくても是非観るべきだと思いました。

光くんに関して言うと、完全に役者として表現し切っているのに、、喫煙シーンでは何とタバコを吹かしていたのです。吸ってはいなかったのですよ…この凄さわかります!?こんなギリギリの状態なのにギリギリアイドルであることを手放していないのですよ光くんったら…!双眼鏡で見てるおたくへの配慮か!?と震えました。いや…天才なんだこれは…笑。

とりあえずこんなに思考があれこれ巡ってしまうような、まとまらないような素晴らしい舞台であったということです…。